アニメ!アニメ!アニメ!
そういや、カメラ!カメラ!カメラ!っていうタイトルの曲がフリッパーズ・ギターであったような・・・・・・こんばんわ〜スロースロップです。
アニメが市民権を得てしばらく経ち、それなりに評価もされるようになっているようですが、それでもまだまだアニメファンとして不満はあります。というか、自分の好きなものが良い評価を受けていないのが気に入らないだけなんですけどね(笑)というわけで、お勧めアニメを一挙紹介っつーことで・・・・・・
きっとオタクっぽい、ロリっぽいってことで敬遠されそうな『プリンセス・チュチュ』
こんなに深い作品はない。というか、これほどストーリーと世界観が面白いのはそんなにないと思う。作画も荒れないし。めちゃくちゃ面白いぞ!!!こらぁ!!!
なぜかオタクの中でもさほど評価されていない『ゼーガ・ペイン』
どうしてだ? 某掲示板群でもほとんど話題にあがらないじゃねえか? ハードSFの良作だと思うんだけどなあ。青春ものとハードSFの両立なんてそうそう出来ないと思うし。それにあのバッドエンドなのかハッピーエンドなのかわからない終わり方が、また良い。でも、たぶん、ハッピーなんだろうな。まあもともと世界観からして、絶望からスタートしてたからな。
トミノファン、ガンダムファンとして言わせてもらう、どうして『∀ガンダム』の評価が低いのだ?
1stやZ至上主義の連中の言い分もわかるぞ。でも∀は本当に素晴らしいガンダムアニメだろうが。菅野の音楽も最高だし、OPの西条ヒデキの歌も良いじゃねえか。内容も申し分なし。牧歌的であり、なおかつヘビーな戦争を描いているし、細かい描写もたまらないじゃないか。というか、ガンダムを知らない人でもぜひ見てほしい作品だ。続けて『ブレン・パワード』『オーバーマン キングゲイナー』と見てもらえば、生まれ変わったトミノ監督のすごさがわかる――電波っぷりも。いわゆる白トミノの――(黒トミノ時代の頂点は『Vガンダム』だけどね。あれは人が死にすぎ)
オタクには軒並み高評価だけど、一般にはなかなか知られていない傑作『プラネテス』
漫画も面白いが、構成の点でアニメには一歩譲ってると思う。作画も良いし、何よりあのNHKで放映されたんだ、『未来少年コナン』以来のすり込みで、NHKのアニメははずれがないってのが定説――スロースロップの中で――だから見てほしい。本当に良いアニメっていうのはこういうのを言うんだろう。
まだまだ言い足りないがここらへんにしとこう。なんでこんなことを言いたくなったのかというと、『無責任艦長タイラー』シリーズを小学生以来、久しぶりに見直したのだが、めちゃくちゃ面白かったからだ。でも、タイラーを知ってる人は少ない。たしかにだいぶ前のアニメ――本放送はたしか1993年くらい?――だけれど、良作には違いない――OVAについては人それぞれだろうけれど――それなのに知名度が低いのはこれ如何に? ちょっと歳がいってる連中しか観ていないというのは残念だ。今の十代の連中にもぜひ見てほしい――作画がほとんど荒れなかった時代があったということを知ってほしい(笑)――
あーすっきりした。アニメ!アニメ!アニメ!
アニメが市民権を得てしばらく経ち、それなりに評価もされるようになっているようですが、それでもまだまだアニメファンとして不満はあります。というか、自分の好きなものが良い評価を受けていないのが気に入らないだけなんですけどね(笑)というわけで、お勧めアニメを一挙紹介っつーことで・・・・・・
きっとオタクっぽい、ロリっぽいってことで敬遠されそうな『プリンセス・チュチュ』
こんなに深い作品はない。というか、これほどストーリーと世界観が面白いのはそんなにないと思う。作画も荒れないし。めちゃくちゃ面白いぞ!!!こらぁ!!!
なぜかオタクの中でもさほど評価されていない『ゼーガ・ペイン』
どうしてだ? 某掲示板群でもほとんど話題にあがらないじゃねえか? ハードSFの良作だと思うんだけどなあ。青春ものとハードSFの両立なんてそうそう出来ないと思うし。それにあのバッドエンドなのかハッピーエンドなのかわからない終わり方が、また良い。でも、たぶん、ハッピーなんだろうな。まあもともと世界観からして、絶望からスタートしてたからな。
トミノファン、ガンダムファンとして言わせてもらう、どうして『∀ガンダム』の評価が低いのだ?
1stやZ至上主義の連中の言い分もわかるぞ。でも∀は本当に素晴らしいガンダムアニメだろうが。菅野の音楽も最高だし、OPの西条ヒデキの歌も良いじゃねえか。内容も申し分なし。牧歌的であり、なおかつヘビーな戦争を描いているし、細かい描写もたまらないじゃないか。というか、ガンダムを知らない人でもぜひ見てほしい作品だ。続けて『ブレン・パワード』『オーバーマン キングゲイナー』と見てもらえば、生まれ変わったトミノ監督のすごさがわかる――電波っぷりも。いわゆる白トミノの――(黒トミノ時代の頂点は『Vガンダム』だけどね。あれは人が死にすぎ)
オタクには軒並み高評価だけど、一般にはなかなか知られていない傑作『プラネテス』
漫画も面白いが、構成の点でアニメには一歩譲ってると思う。作画も良いし、何よりあのNHKで放映されたんだ、『未来少年コナン』以来のすり込みで、NHKのアニメははずれがないってのが定説――スロースロップの中で――だから見てほしい。本当に良いアニメっていうのはこういうのを言うんだろう。
まだまだ言い足りないがここらへんにしとこう。なんでこんなことを言いたくなったのかというと、『無責任艦長タイラー』シリーズを小学生以来、久しぶりに見直したのだが、めちゃくちゃ面白かったからだ。でも、タイラーを知ってる人は少ない。たしかにだいぶ前のアニメ――本放送はたしか1993年くらい?――だけれど、良作には違いない――OVAについては人それぞれだろうけれど――それなのに知名度が低いのはこれ如何に? ちょっと歳がいってる連中しか観ていないというのは残念だ。今の十代の連中にもぜひ見てほしい――作画がほとんど荒れなかった時代があったということを知ってほしい(笑)――
あーすっきりした。アニメ!アニメ!アニメ!
鬼才、奇才、キューブリック
ゴダールと並んで、スロースロップが好きな映画監督に、スタンリー・キューブリックという人がいる。もちろん死ぬほど有名な監督だ。
この人の作品は好きでけっこう観ている。どれも甲乙つけがたく、素晴らしい。とくにカメラ・アングル、小道具、大道具の美的センスの良さ、なんて舌をまく。
映画のストーリーも面白いものが多く、先だって紹介した『時計じかけのオレンジ』もこの人は映画化しているし、有名どころでいけば、『フルメタル・ジャケット』とか『2001年宇宙の旅』、『シャイニング』とどれもストーリーが面白い。だが、問題は結末がどれも難解だということだ。つーかこの人の作品は終わりに近づけば近づくほどわけがわからなくなっていく。辛うじてわかりやすいものといえば『現金(げんなま)に体を張れ』の札束が飛行場を舞うシーンくらいか。いや『博士の異常な愛情』の原爆に男がまたがって突っ込むシーンもわかりやすいか? というかあれはむしろジョークだと思ったほうがいいのかもしれないけれど。
『2001年〜』なんてあのモノリスが出てきて、老後の主人公が出てきて・・・・・・とわけがわからん。『シャイニング』も、おーい写真に入ってんじゃねえよ、と突っ込みたくなる――まあでもジャック・ニコルソンの演技が素晴らしいから許せる――ダウンタウンの松本がシネマ坊主かなんかで、キューブリックの作品はわからなくてもいいだろう、みたいなことを書いていたけれど、まさしくそうなのかもしれない。それぞれの好きなように解釈してくれたらいい、って言う感じなのかもしれないな。
わけがわからん。でも好きなんだよね。たとえば誰かが『2001年〜』は記号学のテキストみたいなものだ、とか言ってたみたいだけど、そんなもん知ったこっちゃない。たしかに記号論で読み解けばそれらしいもんが出てくるだろうさ。でも、そんなものに何の値打ちがある? 色気も糞もないじゃないか。目の前に映画があるんだから、それを楽しめ!!!
とまあ、とにかく、キューブリックとは素晴らしい監督です。あの美的センスだけは本当に羨ましい。あのセンスの万分の一でも頂ければ……映像だけで楽しめる映画を撮れる監督ってのは珍しいと思う。スロースロップの中ではタルコフスキーとキューブリックぐらいのもんです(ゴダールはやっぱり台詞とかが好きだからなあ)。
ではゴダールの時と同じようにベスト3を発表。
第三位 『現金の体を張れ』
第二位 『時計じかけのオレンジ』
第一位 『博士の異常な愛情』
というわけで、みなさんもぜひキューブリックを楽しんでください。お粗末さまでした。
この人の作品は好きでけっこう観ている。どれも甲乙つけがたく、素晴らしい。とくにカメラ・アングル、小道具、大道具の美的センスの良さ、なんて舌をまく。
映画のストーリーも面白いものが多く、先だって紹介した『時計じかけのオレンジ』もこの人は映画化しているし、有名どころでいけば、『フルメタル・ジャケット』とか『2001年宇宙の旅』、『シャイニング』とどれもストーリーが面白い。だが、問題は結末がどれも難解だということだ。つーかこの人の作品は終わりに近づけば近づくほどわけがわからなくなっていく。辛うじてわかりやすいものといえば『現金(げんなま)に体を張れ』の札束が飛行場を舞うシーンくらいか。いや『博士の異常な愛情』の原爆に男がまたがって突っ込むシーンもわかりやすいか? というかあれはむしろジョークだと思ったほうがいいのかもしれないけれど。
『2001年〜』なんてあのモノリスが出てきて、老後の主人公が出てきて・・・・・・とわけがわからん。『シャイニング』も、おーい写真に入ってんじゃねえよ、と突っ込みたくなる――まあでもジャック・ニコルソンの演技が素晴らしいから許せる――ダウンタウンの松本がシネマ坊主かなんかで、キューブリックの作品はわからなくてもいいだろう、みたいなことを書いていたけれど、まさしくそうなのかもしれない。それぞれの好きなように解釈してくれたらいい、って言う感じなのかもしれないな。
わけがわからん。でも好きなんだよね。たとえば誰かが『2001年〜』は記号学のテキストみたいなものだ、とか言ってたみたいだけど、そんなもん知ったこっちゃない。たしかに記号論で読み解けばそれらしいもんが出てくるだろうさ。でも、そんなものに何の値打ちがある? 色気も糞もないじゃないか。目の前に映画があるんだから、それを楽しめ!!!
とまあ、とにかく、キューブリックとは素晴らしい監督です。あの美的センスだけは本当に羨ましい。あのセンスの万分の一でも頂ければ……映像だけで楽しめる映画を撮れる監督ってのは珍しいと思う。スロースロップの中ではタルコフスキーとキューブリックぐらいのもんです(ゴダールはやっぱり台詞とかが好きだからなあ)。
ではゴダールの時と同じようにベスト3を発表。
第三位 『現金の体を張れ』
第二位 『時計じかけのオレンジ』
第一位 『博士の異常な愛情』
というわけで、みなさんもぜひキューブリックを楽しんでください。お粗末さまでした。
それは誰かが通った道
藤子不二雄の評価は、いまだ低い、とスロースロップは思っている。
藤子と言えば? ドラえもん? パーマン? ハットリくん?それともおばQ?
たしかにそのどれもがスロースロップの小さい頃に親しみやすかった作品ではある。スロースロップだってドラえもんの映画には世話に――いまだに観てるけれど――なった。それでも、ドラえもんは藤子Fの方の傑作であって、Aはどうか? ということになる。じゃあハットリくんか? いや違う。藤子Aの最高傑作。それは
まんが道だ!!!!!!!!!!
これだけは譲らない。というかスロースロップの中では、好きな漫画の一位にランクされており、おそらく一生涯、その位置を譲ることはないだろう。
内容はかんたん。藤子FとAの自伝漫画だ。登場人物もとんでもない。手塚治虫はもちろん、石森章太郎、赤塚不二夫などなど漫画ファンにはたまらない面々。しかもその連中が同じ一つのアパートに住んでたというんだから驚く。それが有名なトキワ荘。彼らの青春にはらはらどきどきしよう、という漫画なのだ。
青春、立身、別離、貧困、苦悩、志、道、そんなさまざまなエッセンスが絶妙なバランスで描かれている。
将来に悩みを抱えている人、無気力症に悩まされている人、何かを成そうと頑張っている人、そんな方々にぜひ読んでいただきたい。スロースロップ自身、道に迷ったときはこの作品に触れ、頑張ろう、という気持をもらっている。
青春漫画の、ドキュメンタリータッチの漫画の、最高峰に位置していることは間違いない。さらに、この漫画をお気に入りに上げる現役漫画家も多く、『まんが道』を読んだあとに、様々な漫画家のオマージュに気付くという新しい楽しみも増えること、請け合い!!!
何がどうとか、細かいことは抜きにして、読め!!・・・・・・偉そうに言ってごめんなさい。でも、本当に素晴らしい作品なんです。漫画の力というものがどれほどのものかがわかる作品です。今のクソみたいな大量消費漫画を描いてる馬鹿どもに見習ってもらいたいものです。
※ちなみに続編で『愛、しりそめし頃に』という作品が現在連載中です(休みがちですが)。
藤子と言えば? ドラえもん? パーマン? ハットリくん?それともおばQ?
たしかにそのどれもがスロースロップの小さい頃に親しみやすかった作品ではある。スロースロップだってドラえもんの映画には世話に――いまだに観てるけれど――なった。それでも、ドラえもんは藤子Fの方の傑作であって、Aはどうか? ということになる。じゃあハットリくんか? いや違う。藤子Aの最高傑作。それは
まんが道だ!!!!!!!!!!
これだけは譲らない。というかスロースロップの中では、好きな漫画の一位にランクされており、おそらく一生涯、その位置を譲ることはないだろう。
内容はかんたん。藤子FとAの自伝漫画だ。登場人物もとんでもない。手塚治虫はもちろん、石森章太郎、赤塚不二夫などなど漫画ファンにはたまらない面々。しかもその連中が同じ一つのアパートに住んでたというんだから驚く。それが有名なトキワ荘。彼らの青春にはらはらどきどきしよう、という漫画なのだ。
青春、立身、別離、貧困、苦悩、志、道、そんなさまざまなエッセンスが絶妙なバランスで描かれている。
将来に悩みを抱えている人、無気力症に悩まされている人、何かを成そうと頑張っている人、そんな方々にぜひ読んでいただきたい。スロースロップ自身、道に迷ったときはこの作品に触れ、頑張ろう、という気持をもらっている。
青春漫画の、ドキュメンタリータッチの漫画の、最高峰に位置していることは間違いない。さらに、この漫画をお気に入りに上げる現役漫画家も多く、『まんが道』を読んだあとに、様々な漫画家のオマージュに気付くという新しい楽しみも増えること、請け合い!!!
何がどうとか、細かいことは抜きにして、読め!!・・・・・・偉そうに言ってごめんなさい。でも、本当に素晴らしい作品なんです。漫画の力というものがどれほどのものかがわかる作品です。今のクソみたいな大量消費漫画を描いてる馬鹿どもに見習ってもらいたいものです。
※ちなみに続編で『愛、しりそめし頃に』という作品が現在連載中です(休みがちですが)。
![]() | まんが道 (1) 藤子 不二雄A (1996/06) 中央公論新社 この商品の詳細を見る |
たまには体を動かしてあげたい
NBAもカンファレンス・ファイナルに突入。ますますも盛り上がっていきましょう、といった具合になってますね。西がスパーズ対ジャズ、東がキャヴズ対ピストンズ。
いやーどちらの対決も見所がたくさんですね。特にスロースロップはキャヴズに優勝してほしいと思ってるので、東に注目してるんですが、まあ、実力的にいってピストンズでしょう。でも、レブロンが爆発したら・・・・・・そう思わせる彼のカリスマ性に賭けてみたくなりますね。
しかし、西。ジャズが久しぶりに上がってきましたね。つーかストックトン、ホーナセック、マローンのビッグスリーが好きでジャズのファンだったスロースロップとしては嬉しいところ。でもなあ、キリレンコだもんなぁ。まあスパーズにやられるのは目に見えてる。
いきなりバスケの話しで恐縮です。何を隠そう、わたくし、スロースロップはバスケをたしなんでいたのです――最近はめっきりなんですがね――もちろんNBAもだいぶ前から見ていて――わかる人には、ホーナセックなんて名前だけで十年以上前からってわかるんですが――毎年試合を見ているわけです。
試合を見てると自分でやりたくなってしかたなくなる・・・・・・だがそんな機会もなく、体はなまる一方。タバコは吸う、酒は飲むで不健康人間まっしぐら。たまにはこの腐った体を動かしてやらないと、まさに生きる死体になってしまいそう。
みなさんは体、動かしてますか?
それにしても、レブロン、すごいね。いつ見てもすごい。技術的には、同じ歳だった頃のジョーダンより上なんじゃないかな。でも、レブロンとジョーダンの決定的違いは勝負強さかな。レブロンもそりゃすごいと思うけど、ジョーダンは次元が違う。彼は反則だった。あんな人間いません・・・・・・。あ、そうかジョーダンは人間じゃなかった。神だった。
くー、体を動かしたいなあ。つーか、今度体を動かすの、いつになるんだろう?
いやーどちらの対決も見所がたくさんですね。特にスロースロップはキャヴズに優勝してほしいと思ってるので、東に注目してるんですが、まあ、実力的にいってピストンズでしょう。でも、レブロンが爆発したら・・・・・・そう思わせる彼のカリスマ性に賭けてみたくなりますね。
しかし、西。ジャズが久しぶりに上がってきましたね。つーかストックトン、ホーナセック、マローンのビッグスリーが好きでジャズのファンだったスロースロップとしては嬉しいところ。でもなあ、キリレンコだもんなぁ。まあスパーズにやられるのは目に見えてる。
いきなりバスケの話しで恐縮です。何を隠そう、わたくし、スロースロップはバスケをたしなんでいたのです――最近はめっきりなんですがね――もちろんNBAもだいぶ前から見ていて――わかる人には、ホーナセックなんて名前だけで十年以上前からってわかるんですが――毎年試合を見ているわけです。
試合を見てると自分でやりたくなってしかたなくなる・・・・・・だがそんな機会もなく、体はなまる一方。タバコは吸う、酒は飲むで不健康人間まっしぐら。たまにはこの腐った体を動かしてやらないと、まさに生きる死体になってしまいそう。
みなさんは体、動かしてますか?
それにしても、レブロン、すごいね。いつ見てもすごい。技術的には、同じ歳だった頃のジョーダンより上なんじゃないかな。でも、レブロンとジョーダンの決定的違いは勝負強さかな。レブロンもそりゃすごいと思うけど、ジョーダンは次元が違う。彼は反則だった。あんな人間いません・・・・・・。あ、そうかジョーダンは人間じゃなかった。神だった。
くー、体を動かしたいなあ。つーか、今度体を動かすの、いつになるんだろう?
『時計じかけのオレンジ』はうまいかまずいか
「よう、これからどうする?」
とまあこんな感じで、『時計じかけのオレンジ』は始まる。語り手はアレックスという危ない、というか狂った、というのか、まあ普通ではない若者。
物語は〈コロバ・ミルクバー〉から始まる。アレックスとそのドルーグ(仲間)たち――ピートにジョージにディム。どいつもこいつも悪い奴で、しょうもない。
この小説の魅力は、ずばり言葉。例えば上で使ったような、「仲間=ドルーグ」って感じで、造語ががんがん出てくる。でもそれが良い感じに、小説世界を盛り上げる。例えば「モロコ=ミルク」「デング=金」「スメック=笑い」「モズク=頭」「デボーチカ=おんなのこ」と、こんな造語が普通の文章に中に出てくるので、ルビがなければ何を言ってるのかわかったもんじゃない。でもそれが麻薬のようにスロースロップのモズクん中をぐちゃぐちゃにかきまわして、快感をもたらすわけです。造語だけじゃないくて、文体そのものもなかなか珍しい手法を用いていて、その手法と造語の相性が良い。
まあ読んでもらうのが一番ですんで読んでみてくださいな。今から40年以上前の小説だけれど、新鮮さが失われていない。その理由として世界観が近未来だっていうのもあるんだけれど、一番の理由は小説のテーマがひどく普遍的だからだと思う。暴力とはいったいなんなのか、っていうのが一つのテーマになってる。(風刺小説であるので、もちろん当時の英国の状況なんかがあらわれているんだろうけれど、そんなもん知ったこっちゃない。)
暴力とはなんなんだろうか? 物理的? 精神的? みかけはオレンジだけど、中身は機械じかけになっちゃうような暴力って何なんだ?
・・・・・・正直に告白します。わかりません。小説の中では一つの政府が主人公の人格を矯正――非人道的な方法で――する。そして最期のあたりで、その次の政府――たぶん政権交代でもしたんだろう――がまた矯正――詳しくは語られてないけれど――する。だから暴力とは、何か一つの思想で――例えばファシズムとか――人間の人格を変形させてしまうようなものをそう呼ぶのかもしれない。または、アレックスが繰り返してきた犯罪行為をそう呼ぶのかもしれない。さらには、一つ目のものとかぶるんだけど、政府とか公といった存在の都合で、暴力の定義が簡単に変わってしまうというものこそを、本当の暴力というのかもしれない。
でも、スロースロップは、わからない。殴られてたら痛いし、悪口言われても辛い。自分の人格を否定されたくもない。暴力ってことは、力で何かを変形させる、もしくは傷つけるってことなんだろう。でも、個人的には癒しも暴力になる場合があると思っている派なので、ことはそう単純じゃない。
やっぱり、あれかな。個人個人の問題なのかな? まあ、いいさ。わからんもんはわからんってしておこう。いつかわかるかもしれない。
ちなみに、この小説には幻の最終章ってのがあって、初版にのみそれがあったようだけれど、作者の意向により削除されてしまったみたいです。でも、ネットは広大です。それを日本語訳して載せてくれている方がいらっしゃいます。興味があったら探してみては? スロースロップ的には幻の最終章もなかなか好きです。
――追記
先日、このブログ初のコメントをしてくださった方、ありがとうございました。お礼の仕方がわからなかったので、こういう形でお礼申し上げます。これからも更新を頑張っていきたいと思います。
とまあこんな感じで、『時計じかけのオレンジ』は始まる。語り手はアレックスという危ない、というか狂った、というのか、まあ普通ではない若者。
物語は〈コロバ・ミルクバー〉から始まる。アレックスとそのドルーグ(仲間)たち――ピートにジョージにディム。どいつもこいつも悪い奴で、しょうもない。
この小説の魅力は、ずばり言葉。例えば上で使ったような、「仲間=ドルーグ」って感じで、造語ががんがん出てくる。でもそれが良い感じに、小説世界を盛り上げる。例えば「モロコ=ミルク」「デング=金」「スメック=笑い」「モズク=頭」「デボーチカ=おんなのこ」と、こんな造語が普通の文章に中に出てくるので、ルビがなければ何を言ってるのかわかったもんじゃない。でもそれが麻薬のようにスロースロップのモズクん中をぐちゃぐちゃにかきまわして、快感をもたらすわけです。造語だけじゃないくて、文体そのものもなかなか珍しい手法を用いていて、その手法と造語の相性が良い。
まあ読んでもらうのが一番ですんで読んでみてくださいな。今から40年以上前の小説だけれど、新鮮さが失われていない。その理由として世界観が近未来だっていうのもあるんだけれど、一番の理由は小説のテーマがひどく普遍的だからだと思う。暴力とはいったいなんなのか、っていうのが一つのテーマになってる。(風刺小説であるので、もちろん当時の英国の状況なんかがあらわれているんだろうけれど、そんなもん知ったこっちゃない。)
暴力とはなんなんだろうか? 物理的? 精神的? みかけはオレンジだけど、中身は機械じかけになっちゃうような暴力って何なんだ?
・・・・・・正直に告白します。わかりません。小説の中では一つの政府が主人公の人格を矯正――非人道的な方法で――する。そして最期のあたりで、その次の政府――たぶん政権交代でもしたんだろう――がまた矯正――詳しくは語られてないけれど――する。だから暴力とは、何か一つの思想で――例えばファシズムとか――人間の人格を変形させてしまうようなものをそう呼ぶのかもしれない。または、アレックスが繰り返してきた犯罪行為をそう呼ぶのかもしれない。さらには、一つ目のものとかぶるんだけど、政府とか公といった存在の都合で、暴力の定義が簡単に変わってしまうというものこそを、本当の暴力というのかもしれない。
でも、スロースロップは、わからない。殴られてたら痛いし、悪口言われても辛い。自分の人格を否定されたくもない。暴力ってことは、力で何かを変形させる、もしくは傷つけるってことなんだろう。でも、個人的には癒しも暴力になる場合があると思っている派なので、ことはそう単純じゃない。
やっぱり、あれかな。個人個人の問題なのかな? まあ、いいさ。わからんもんはわからんってしておこう。いつかわかるかもしれない。
ちなみに、この小説には幻の最終章ってのがあって、初版にのみそれがあったようだけれど、作者の意向により削除されてしまったみたいです。でも、ネットは広大です。それを日本語訳して載せてくれている方がいらっしゃいます。興味があったら探してみては? スロースロップ的には幻の最終章もなかなか好きです。
――追記
先日、このブログ初のコメントをしてくださった方、ありがとうございました。お礼の仕方がわからなかったので、こういう形でお礼申し上げます。これからも更新を頑張っていきたいと思います。
![]() | 時計じかけのオレンジ アントニイ・バージェス、Anthony Burgess 他 (1977/06) 早川書房 この商品の詳細を見る |
同意を求めたい
別に何があるってわけじゃないけれど、一年に一回か二回くらい、無性にボーリングをしたくなる。大してうまくもないし、それほど好きでもないんだが、球を転がしに行きたくなるんです。
ボーリングしたって疲れるだけなのにな・・・・・・
右手にボールを持って、1・2・3で腕を振る。スロースロップはカーブなんて上等な技術はもってないので、レーンの右よりに立って、球を転がす。そんで斜めに転がす。まあ単純な作業は得意だからそれを繰り返すだけで一ゲーム百本くらいは倒れてくれる――我ながら微妙な数字だな・・・――そして二ゲーム目へ。だいたい二ゲームはやるんです。
二ゲームを終えて精算して、自分の恥ずかしいスコアが記載されたペラペラの紙を丁寧に、細かく折りたたむ。一緒に来てる連中と互いの技術のなさを罵倒しあって帰路につく。
ボーリングなんて所詮これだけの過程を単純作業並みに淡々とこなすだけなのに、なぜ行きたくなるんだろう?
そりゃあ、まあ、ストライクが出たら嬉しいさ。スプリットがとれたら喜ぶさ。
だからと言って、引っ張った乳首みたいな棒を穴があいた球で倒すごときの遊戯に、金と労力を払い、慰み程度の楽しさを求めることを積極的に肯定する気は、毛頭ない。
だけど・・・・・・
だけど!!!!
一年に一、二回くらいは、死んでも球を転がしに行きたくなるんだ!!!! みなさんもそういうことってあるでしょ? ボーリングに限らず、何でもいいけど、好きでもないことをやりたくなることが・・・・・・。
今年はもう一回行ってるから、あと一回くらいは発作がくるんだろうな。それが早いか遅いか、五分後か五ヵ月後か、それは神のみぞ知る。めでたし、めでたし――
ボーリングしたって疲れるだけなのにな・・・・・・
右手にボールを持って、1・2・3で腕を振る。スロースロップはカーブなんて上等な技術はもってないので、レーンの右よりに立って、球を転がす。そんで斜めに転がす。まあ単純な作業は得意だからそれを繰り返すだけで一ゲーム百本くらいは倒れてくれる――我ながら微妙な数字だな・・・――そして二ゲーム目へ。だいたい二ゲームはやるんです。
二ゲームを終えて精算して、自分の恥ずかしいスコアが記載されたペラペラの紙を丁寧に、細かく折りたたむ。一緒に来てる連中と互いの技術のなさを罵倒しあって帰路につく。
ボーリングなんて所詮これだけの過程を単純作業並みに淡々とこなすだけなのに、なぜ行きたくなるんだろう?
そりゃあ、まあ、ストライクが出たら嬉しいさ。スプリットがとれたら喜ぶさ。
だからと言って、引っ張った乳首みたいな棒を穴があいた球で倒すごときの遊戯に、金と労力を払い、慰み程度の楽しさを求めることを積極的に肯定する気は、毛頭ない。
だけど・・・・・・
だけど!!!!
一年に一、二回くらいは、死んでも球を転がしに行きたくなるんだ!!!! みなさんもそういうことってあるでしょ? ボーリングに限らず、何でもいいけど、好きでもないことをやりたくなることが・・・・・・。
今年はもう一回行ってるから、あと一回くらいは発作がくるんだろうな。それが早いか遅いか、五分後か五ヵ月後か、それは神のみぞ知る。めでたし、めでたし――
勝手にしやがれ!
本でもなんでもそうなんだけれど、理由は説明できないが、妙に心をひきつける作品に出会うことが、しばしばある。それは割と一生涯の付き合いになることが多い、んじゃないかと思う――人生八十年生きてみないことにはわからないけれれど――
ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』はスロースロップにとってそういう映画だ。
ヌーヴェルバーグという、フランスの映画が世界中を席巻した時代があった。フランソワ・トリュフォー(『大人はわかってくれない』)なんかが有名だから聞いたことくらいはあるって人も多いことだろう。
その中でも、ゴダールは現在に至るまで映画ファンをハラハラ(笑)させ続けている存在であり、彼の最初期の作品が『勝手にしやがれ』だ。
主演はジャン=ポール・ベルモンド、ヒロインはジーン・セバーグ。団塊の世代にとっては懐かしい名前なんじゃないだろうか?――スロースロップの親父も、ベルモンドは懐かしいと言っていた――
つまり俺は阿呆だ。
という強烈なフレーズから、この作品は始まる。ベルモンド演じるミシェルは車を盗んで売ることで生計をたてている。根っからのアウトローといった感じ。
サングラスに斜めにくわえたタバコ。それがめちゃくちゃに格好いい。というか、彼はひっきりなしにタバコを吸い続ける。最初から最後まで。
ジーン・セバーグはアメリカからパリに留学しており、新聞売りのバイトをしながら、新聞記事を書かせてもらいたいと思っている。本好で、成り上がりを狙っている女だ(ちなみにフォークナーが好きみたいだ)。
映画の内容は二人の刹那的な関係を描いている。もちろん一口に言えないのだが、大筋を言えば、そんなところだ。
ここから、読むほうがうんざりするほど薀蓄を語りたいところだが、止めておく。この映画についてあれこれ語るのはみっともないからだ。
魅力を幾つか上げる。
1・セリフの一つ一つが魅力的に出来上がっている。例として
海が嫌いなら、山が嫌いなら、都会が嫌いなら、勝手にしやがれ!
セリフには痺れさせられる。ゴダールの映画はその難解さで有名だったりするんだけど、非常にわかりやすく、感覚に訴えるものがある。だからこそ(?)セリフも以降の作品に比べて意味をとりやすい、と思う。
2・映像がとにかくスタイリッシュ。というか、スタイリッシュというのはこういう作品をいうのだ、というお手本みたいな作品。特にジャンプ・カットなんかは有名かな? 手持ちカメラでの撮影がやけに合っている。
3・ベルモンドがひたすらに格好いい。この映画を見ると無性にタバコが吸いたくなる。
4・ベルモンドとセバーグの関係が・・・・・・。うーん言葉にできない。でもすごく、実感もするし共感もするけれど、どこか自分とは切れたところにいるような気がする。そこがたまらなくスロースロップの心の一部分をつっつく。
魅力を語ればきりがないので、ここらで止めとく。・・・・・・なんか今日は全部中途半端だ。
ベルモンドはゴダール作品でいえば『気狂いピエロ』にも出てるんだけど、スロースロップはこっちの方が好きだ。
もしこの作品を見て、ゴダールを好きになったなら、筑摩書房から『映画史』という本が出てるからぜひ読んでほしい。ゴダールの考えがいくらか理解できるから(同名のものでゴダールの映画もある。そっちはまだ見たことがないんだけど、ゴダールが映画の歴史を語るってものらしい。本と同一の内容なのかもしれない)
最後にゴダール映画のお気に入りベスト3を発表して、終わろう。
第三位 『女と男のいる舗道』
第二位 『アワーミュージック』
第一位 『勝手にしやがれ』
※ なお、ピストルズのたった一枚のアルバムの邦題も『勝手にしやがれ』。
ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』はスロースロップにとってそういう映画だ。
ヌーヴェルバーグという、フランスの映画が世界中を席巻した時代があった。フランソワ・トリュフォー(『大人はわかってくれない』)なんかが有名だから聞いたことくらいはあるって人も多いことだろう。
その中でも、ゴダールは現在に至るまで映画ファンをハラハラ(笑)させ続けている存在であり、彼の最初期の作品が『勝手にしやがれ』だ。
主演はジャン=ポール・ベルモンド、ヒロインはジーン・セバーグ。団塊の世代にとっては懐かしい名前なんじゃないだろうか?――スロースロップの親父も、ベルモンドは懐かしいと言っていた――
つまり俺は阿呆だ。
という強烈なフレーズから、この作品は始まる。ベルモンド演じるミシェルは車を盗んで売ることで生計をたてている。根っからのアウトローといった感じ。
サングラスに斜めにくわえたタバコ。それがめちゃくちゃに格好いい。というか、彼はひっきりなしにタバコを吸い続ける。最初から最後まで。
ジーン・セバーグはアメリカからパリに留学しており、新聞売りのバイトをしながら、新聞記事を書かせてもらいたいと思っている。本好で、成り上がりを狙っている女だ(ちなみにフォークナーが好きみたいだ)。
映画の内容は二人の刹那的な関係を描いている。もちろん一口に言えないのだが、大筋を言えば、そんなところだ。
ここから、読むほうがうんざりするほど薀蓄を語りたいところだが、止めておく。この映画についてあれこれ語るのはみっともないからだ。
魅力を幾つか上げる。
1・セリフの一つ一つが魅力的に出来上がっている。例として
海が嫌いなら、山が嫌いなら、都会が嫌いなら、勝手にしやがれ!
セリフには痺れさせられる。ゴダールの映画はその難解さで有名だったりするんだけど、非常にわかりやすく、感覚に訴えるものがある。だからこそ(?)セリフも以降の作品に比べて意味をとりやすい、と思う。
2・映像がとにかくスタイリッシュ。というか、スタイリッシュというのはこういう作品をいうのだ、というお手本みたいな作品。特にジャンプ・カットなんかは有名かな? 手持ちカメラでの撮影がやけに合っている。
3・ベルモンドがひたすらに格好いい。この映画を見ると無性にタバコが吸いたくなる。
4・ベルモンドとセバーグの関係が・・・・・・。うーん言葉にできない。でもすごく、実感もするし共感もするけれど、どこか自分とは切れたところにいるような気がする。そこがたまらなくスロースロップの心の一部分をつっつく。
魅力を語ればきりがないので、ここらで止めとく。・・・・・・なんか今日は全部中途半端だ。
ベルモンドはゴダール作品でいえば『気狂いピエロ』にも出てるんだけど、スロースロップはこっちの方が好きだ。
もしこの作品を見て、ゴダールを好きになったなら、筑摩書房から『映画史』という本が出てるからぜひ読んでほしい。ゴダールの考えがいくらか理解できるから(同名のものでゴダールの映画もある。そっちはまだ見たことがないんだけど、ゴダールが映画の歴史を語るってものらしい。本と同一の内容なのかもしれない)
最後にゴダール映画のお気に入りベスト3を発表して、終わろう。
第三位 『女と男のいる舗道』
第二位 『アワーミュージック』
第一位 『勝手にしやがれ』
※ なお、ピストルズのたった一枚のアルバムの邦題も『勝手にしやがれ』。
こんなことを考えたって・・・・・・
あまり芝居を見るほうじゃないけれど、テレビで深夜にやってたりすると、たまに見てしまう。それで思ったんだが、人が死んでいて、それを発見した時の反応っていうと、ほとんど「死、死んでる」とかいってのけぞったり、驚きのあまり倒れたり、腰を抜かしたり、ってところだ。芝居に限らず、ドラマや映画なんかでもたいていそんなリアクションをとる。
芝居とか映画、ドラマなんかは――おそらくだけど――リアルさを求めているから、何事によらずリアルに表現すると思う。ということは死体を発見したときのリアクションも限りなくリアルに近い演技なんだろうか? もしかしたら死体を見つけた時のリアクションはこうだ、というようなすり込みがなされてるから、あんな演技になっても、見てる方はリアルだと思っちゃうんだろうか?
演技とかにはぜんぜん詳しくないんだが、例えば演技指導をするとして、役者に「想像してみろ」とか、「お前ならこういう時どうする?」とかって指導してしまうだろうなぁ。
だとしたら死体を見つけたときのリアクションは、そういった、「想像」とか「自分だったら」とかいうものの総体なだろうか?
芝居ってもんは遥かな昔から行われてきてるんだろう。ってことは、最初に「死体を見つけた時のリアクション」の演技をした奴がのもんがお手本になってるって可能性もある。
うーんわからん。でも、もしかすると、本当に死体を見つけたことをある奴が、その演技を指導したかもしれない。何千年も前に。と、いうことは、たった一人の人間が経験した、他人の死体を見つけた時のショックを、模倣、模倣の繰り返しで現在に至っているのかも? スロースロップたちはそんなたった一人の人間のリアクションに支配されて、誰かの死体を見つけた時は、そうやって驚こう、とかって頭の中に植えつけられてるのかもしれないな。そう考えると、おかしな感じがする。
でもよくよく自分としては、演技とかはリアルじゃなくても良いと思ってる派だから、大仰にやられたほうが演出としては合ってるんじゃないかと思うときもある。
リアルな、日常生活の表現(言葉)をフィクション用に「異化」する、みたいな感じで演技をとらえると、そんなことを考えたりする。
でも、大昔に死体を見つけた奴の演技が、脈々と伝わってる、って方が面白いには面白いけれど・・・・・・
芝居とか映画、ドラマなんかは――おそらくだけど――リアルさを求めているから、何事によらずリアルに表現すると思う。ということは死体を発見したときのリアクションも限りなくリアルに近い演技なんだろうか? もしかしたら死体を見つけた時のリアクションはこうだ、というようなすり込みがなされてるから、あんな演技になっても、見てる方はリアルだと思っちゃうんだろうか?
演技とかにはぜんぜん詳しくないんだが、例えば演技指導をするとして、役者に「想像してみろ」とか、「お前ならこういう時どうする?」とかって指導してしまうだろうなぁ。
だとしたら死体を見つけたときのリアクションは、そういった、「想像」とか「自分だったら」とかいうものの総体なだろうか?
芝居ってもんは遥かな昔から行われてきてるんだろう。ってことは、最初に「死体を見つけた時のリアクション」の演技をした奴がのもんがお手本になってるって可能性もある。
うーんわからん。でも、もしかすると、本当に死体を見つけたことをある奴が、その演技を指導したかもしれない。何千年も前に。と、いうことは、たった一人の人間が経験した、他人の死体を見つけた時のショックを、模倣、模倣の繰り返しで現在に至っているのかも? スロースロップたちはそんなたった一人の人間のリアクションに支配されて、誰かの死体を見つけた時は、そうやって驚こう、とかって頭の中に植えつけられてるのかもしれないな。そう考えると、おかしな感じがする。
でもよくよく自分としては、演技とかはリアルじゃなくても良いと思ってる派だから、大仰にやられたほうが演出としては合ってるんじゃないかと思うときもある。
リアルな、日常生活の表現(言葉)をフィクション用に「異化」する、みたいな感じで演技をとらえると、そんなことを考えたりする。
でも、大昔に死体を見つけた奴の演技が、脈々と伝わってる、って方が面白いには面白いけれど・・・・・・
『続涼宮ハルヒ』論
――前回の続き
キョンはすべてをパロディにする小説装置だ。キョンの視線は読者の視線に近似しており、さらに思考も読者に近い。むしろそれはライトノベルという形式における主人公の変遷の結果と言えるのかもしれない。ライトノベルは小説とアニメ、漫画の中間に位置している世界でみてもかなり珍しい表現形式であり、それは筆者と読者の知っているもの、見ているものが重なっていてこそ成立する表現になっている。暗黙の了解によりなりたっていると言ってもいい(擬音語などの多用でも、読者にはある程度の先行の知識があるからそれがどういった表現なのかが理解できる。逆に言えば、そういった知識がないものにとってはかなり厳しいハードルがあると考えていい)。
ライトノベルの主人公としてのキョンは合格であることは間違いない。そしてさらには、羨望の対象にすらなりうる可能性がある。もちろんどの作品の主人公も羨望の対象にはなりうるが、キョンほどそれに適しているものはない。なぜなら、キョンはなんの能力も持っておらず、平々凡々な人間であり、なおかつ自分の置かれた状況を読者の視点で分析することができるからだ。キョンは読者の視点で事件に接しているのだ。だから、とんでもない状況に置かれても、結局は楽しんでいる。読者もそうだろう。そういった状況になりたい、と望む。
・・・・・・ここでお気づきだろうか。読者は何かに似せられている。キョンのような状況になりたいと望む、という欲望。そうハルヒと同じ願望を読者は持たされているのだ。ハルヒの望む姿そのままがキョンなのだ。漫画、アニメ的な世界に巻き込まれる主人公。ハルヒはキョンのような人物の状況にあこがれているのだ。
そこで、『涼宮ハルヒ〜』という作品はパロディそのものになってしまう。読者が知っている先行するアニメ、漫画があり、そのパロディとしてハルヒという作品があり、その主人公であるハルヒは読者のような願望を持ち、その身近にいて読者の視点を持つキョンは、パロディ人間となっている。
「探偵がいるから事件が起こる。事件が起こるから探偵がいる」=「ハルヒがいるからキョンがいる。キョンがいるからハルヒがいる」=「読者が望むから事件は起こり、事件があるから読者(ハルヒ)はキョンのような人物になりたいと望む」
先行するすべてのメディアをパロディにすることによって成り立っている。それが『涼宮ハルヒ〜』という作品なのだ。
現代の表現はパロディに向かっている。オリジナリティはどこにいった? という人もいるだろうが。スロースロップとしては喜ばしい。パロディはオリジナルに対するオマージュであると同時に、オリジナルを超える為の指標、もしくは誓いみたいなものだからだ。
人は模倣によってしか創造することはできない。大江健三郎は『新しい文学のために』という新書の中で、想像力とは現実にあるもののイメージを歪めること(変換するというような意味合いだと思う)だというようなことを言っている。
人は自然を模倣することから創造を始めた。もちろん想像力を用いて。様々な表現は今や長い歴史を持ってしまった。そのことによって、先行する表現が、現代の人間にとっての新たな「自然」になってしまっている。だからこそのパロディであって、メタ・フィクションであると、思う。
ハルヒという作品はそう言った点で、スロースロップをひきつけた。
またわけがわからなくなってきた。まあいいや。アニメのハルヒ二期と『涼宮ハルヒの驚愕』(発売延期(泣))を楽しみに待つことにしますか。
キョンはすべてをパロディにする小説装置だ。キョンの視線は読者の視線に近似しており、さらに思考も読者に近い。むしろそれはライトノベルという形式における主人公の変遷の結果と言えるのかもしれない。ライトノベルは小説とアニメ、漫画の中間に位置している世界でみてもかなり珍しい表現形式であり、それは筆者と読者の知っているもの、見ているものが重なっていてこそ成立する表現になっている。暗黙の了解によりなりたっていると言ってもいい(擬音語などの多用でも、読者にはある程度の先行の知識があるからそれがどういった表現なのかが理解できる。逆に言えば、そういった知識がないものにとってはかなり厳しいハードルがあると考えていい)。
ライトノベルの主人公としてのキョンは合格であることは間違いない。そしてさらには、羨望の対象にすらなりうる可能性がある。もちろんどの作品の主人公も羨望の対象にはなりうるが、キョンほどそれに適しているものはない。なぜなら、キョンはなんの能力も持っておらず、平々凡々な人間であり、なおかつ自分の置かれた状況を読者の視点で分析することができるからだ。キョンは読者の視点で事件に接しているのだ。だから、とんでもない状況に置かれても、結局は楽しんでいる。読者もそうだろう。そういった状況になりたい、と望む。
・・・・・・ここでお気づきだろうか。読者は何かに似せられている。キョンのような状況になりたいと望む、という欲望。そうハルヒと同じ願望を読者は持たされているのだ。ハルヒの望む姿そのままがキョンなのだ。漫画、アニメ的な世界に巻き込まれる主人公。ハルヒはキョンのような人物の状況にあこがれているのだ。
そこで、『涼宮ハルヒ〜』という作品はパロディそのものになってしまう。読者が知っている先行するアニメ、漫画があり、そのパロディとしてハルヒという作品があり、その主人公であるハルヒは読者のような願望を持ち、その身近にいて読者の視点を持つキョンは、パロディ人間となっている。
「探偵がいるから事件が起こる。事件が起こるから探偵がいる」=「ハルヒがいるからキョンがいる。キョンがいるからハルヒがいる」=「読者が望むから事件は起こり、事件があるから読者(ハルヒ)はキョンのような人物になりたいと望む」
先行するすべてのメディアをパロディにすることによって成り立っている。それが『涼宮ハルヒ〜』という作品なのだ。
現代の表現はパロディに向かっている。オリジナリティはどこにいった? という人もいるだろうが。スロースロップとしては喜ばしい。パロディはオリジナルに対するオマージュであると同時に、オリジナルを超える為の指標、もしくは誓いみたいなものだからだ。
人は模倣によってしか創造することはできない。大江健三郎は『新しい文学のために』という新書の中で、想像力とは現実にあるもののイメージを歪めること(変換するというような意味合いだと思う)だというようなことを言っている。
人は自然を模倣することから創造を始めた。もちろん想像力を用いて。様々な表現は今や長い歴史を持ってしまった。そのことによって、先行する表現が、現代の人間にとっての新たな「自然」になってしまっている。だからこそのパロディであって、メタ・フィクションであると、思う。
ハルヒという作品はそう言った点で、スロースロップをひきつけた。
またわけがわからなくなってきた。まあいいや。アニメのハルヒ二期と『涼宮ハルヒの驚愕』(発売延期(泣))を楽しみに待つことにしますか。
涼宮ハルヒ論
昨年流行った『涼宮ハルヒの憂鬱』。もちろんスロースロップもアニメを見ました。それではまってラノベのほうも購入しました。うーんアニメの方が好きかな・・・・・・
で、わたしが何を言いたいかというとですね、どうしてスロースロップがハルヒに惹かれたのか、ということです。
そもそも、文学に限らず、現代の表現方法は一つ、先行するメディアをパロディ化するということが主な手法になってきている。もちろんパロディ化というのは『ドン・キホーテ』から脈々と続く、かなりメジャーな手法なんだけど。
原作のハルヒを読んでみて、ある意味で、『ドン・キホーテ』に似ている部分があるんじゃないだろうか、と思ったわけです。というか、パロディ化という過程そのものを用いているんじゃないだろうか、と考えたんです。
『ドン・キホーテ』の後半、前半の冒険が書物になっていて、主人公のアロンソ・キハーダが世間に知れ渡っているという入れ子的な構造になってる。どういうことかというと、前半で主人公が今までに読んだ騎士道物語をなぞって冒険――らしきもの――をする。そんで後半になったら、自分が騎士道物語の登場人物になってる――喜劇の登場人物としてだけれど――そしてアロンソ・キハーダの狂気は進行する。自分がパロディの対象になってるわけです。
さて、ハルヒではどうか? ハルヒは自らが意識せずに、すべて自分の望むことが起きる。その説明として、古泉が「小説の中の探偵」を引き合いにだしているが、まさしく正鵠を射ていると思う。
そもそもフィクション(お話し、程度の意味)というものは何かが起こらなくちゃいけない――もちろんサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』では何も起きないけど、何も起きないことが起きていることで、期待していた観客を裏切っているというカタルシスはありうる――ということが出発点となっている。だから、探偵を出すなら、殺人事件が起こらなければならない。
ではハルヒでは何が起こればいいのか?
ハルヒ自身が非日常的なものを望んでいる。それは思春期にありがちな、自分を特別視したい願望のあらわれではあるんだけれど、ここで注意したいのは、ハルヒは望んではいるが、何も起こらないことを――何となくではあるけど――知っているというところ。現実的に考えて非日常的なものは起こりえない、ということをハルヒは「常識的」に知っている。それでも彼女は非日常を探しに行動する。行動することだけが唯一、自分の退屈さを紛らわせることができるからだ―もちろんキョンに対しての感情の部分もあるけれど――だが、ハルヒが気付かないところで非日常は起きている。ハルヒの視界の外がメタ・フィクショナルな世界になっているのだ。(ハルヒ自身もある程度は不思議現象に巻き込まれてはいるけれど、雪山とかで)
そのメタ・フィクショナルな世界を支えているのが、ハルヒ以外の全ての登場人物である。未来人、宇宙人、超能力者、秘密結社・・・・・・なんでもアリだ。
その隙間を埋めているのが、キョンだ。キョンはハルヒと関わることで、かなり危うい経験を繰り返している。それを迷惑がっている、と思いきやそんなことはない。キョン自身そういった生活を楽しんでいる。引用はしないが、自分でそう明言している。
キョンという人物は読者とハルヒの世界を繋げる報告者である。作品はキョンのモノローグで埋め尽くされている。キョンは現状の自分を、アニメや漫画の中のような世界にいる、と思っているだろう(自分が気付いていないとしても)。その中でキョンは自分の立ち位置を楽しんでいる。そしてそうすることで、今の世界を保持する役目も同時に担っている。めちゃくちゃな世界にしたくないから、だそうだ――少なくとも古泉たちはそうしておきたいようだ――
キョンは読者の了解と作品世界をまるごとパロディ化させている。
続く――
で、わたしが何を言いたいかというとですね、どうしてスロースロップがハルヒに惹かれたのか、ということです。
そもそも、文学に限らず、現代の表現方法は一つ、先行するメディアをパロディ化するということが主な手法になってきている。もちろんパロディ化というのは『ドン・キホーテ』から脈々と続く、かなりメジャーな手法なんだけど。
原作のハルヒを読んでみて、ある意味で、『ドン・キホーテ』に似ている部分があるんじゃないだろうか、と思ったわけです。というか、パロディ化という過程そのものを用いているんじゃないだろうか、と考えたんです。
『ドン・キホーテ』の後半、前半の冒険が書物になっていて、主人公のアロンソ・キハーダが世間に知れ渡っているという入れ子的な構造になってる。どういうことかというと、前半で主人公が今までに読んだ騎士道物語をなぞって冒険――らしきもの――をする。そんで後半になったら、自分が騎士道物語の登場人物になってる――喜劇の登場人物としてだけれど――そしてアロンソ・キハーダの狂気は進行する。自分がパロディの対象になってるわけです。
さて、ハルヒではどうか? ハルヒは自らが意識せずに、すべて自分の望むことが起きる。その説明として、古泉が「小説の中の探偵」を引き合いにだしているが、まさしく正鵠を射ていると思う。
そもそもフィクション(お話し、程度の意味)というものは何かが起こらなくちゃいけない――もちろんサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』では何も起きないけど、何も起きないことが起きていることで、期待していた観客を裏切っているというカタルシスはありうる――ということが出発点となっている。だから、探偵を出すなら、殺人事件が起こらなければならない。
ではハルヒでは何が起こればいいのか?
ハルヒ自身が非日常的なものを望んでいる。それは思春期にありがちな、自分を特別視したい願望のあらわれではあるんだけれど、ここで注意したいのは、ハルヒは望んではいるが、何も起こらないことを――何となくではあるけど――知っているというところ。現実的に考えて非日常的なものは起こりえない、ということをハルヒは「常識的」に知っている。それでも彼女は非日常を探しに行動する。行動することだけが唯一、自分の退屈さを紛らわせることができるからだ―もちろんキョンに対しての感情の部分もあるけれど――だが、ハルヒが気付かないところで非日常は起きている。ハルヒの視界の外がメタ・フィクショナルな世界になっているのだ。(ハルヒ自身もある程度は不思議現象に巻き込まれてはいるけれど、雪山とかで)
そのメタ・フィクショナルな世界を支えているのが、ハルヒ以外の全ての登場人物である。未来人、宇宙人、超能力者、秘密結社・・・・・・なんでもアリだ。
その隙間を埋めているのが、キョンだ。キョンはハルヒと関わることで、かなり危うい経験を繰り返している。それを迷惑がっている、と思いきやそんなことはない。キョン自身そういった生活を楽しんでいる。引用はしないが、自分でそう明言している。
キョンという人物は読者とハルヒの世界を繋げる報告者である。作品はキョンのモノローグで埋め尽くされている。キョンは現状の自分を、アニメや漫画の中のような世界にいる、と思っているだろう(自分が気付いていないとしても)。その中でキョンは自分の立ち位置を楽しんでいる。そしてそうすることで、今の世界を保持する役目も同時に担っている。めちゃくちゃな世界にしたくないから、だそうだ――少なくとも古泉たちはそうしておきたいようだ――
キョンは読者の了解と作品世界をまるごとパロディ化させている。
続く――
よく考えて見れば・・・・・・
おかしなことがこの世には多すぎるように思う。それも身近にそんなことがごろごろ転がっているから始末が悪い。さあ、誰のせいでこんなことになってしまったのか。
思いつくことは一つ。小便についてだ、下の話で恐縮です。
スロースロップはよく、缶で売っているミートソースを買う。これがなかなかに美味くて、ついつい食べ過ぎてしまうのだが、問題はその後の排尿の際に起こる。小便からほのかにミートソースの臭いがするのだ。それに気付いたときは本当に驚いてしまって、もしかして病気なんじゃないんだろうか、と思った。知り合いに話しても、そんなことはない、と言われるし・・・・・・。これはスロースロップの内臓組織はミートソースの香りを消化しきれていないからなのだろうか? 謎は深まるばかりである。
思いつくことは一つ。小便についてだ、下の話で恐縮です。
スロースロップはよく、缶で売っているミートソースを買う。これがなかなかに美味くて、ついつい食べ過ぎてしまうのだが、問題はその後の排尿の際に起こる。小便からほのかにミートソースの臭いがするのだ。それに気付いたときは本当に驚いてしまって、もしかして病気なんじゃないんだろうか、と思った。知り合いに話しても、そんなことはない、と言われるし・・・・・・。これはスロースロップの内臓組織はミートソースの香りを消化しきれていないからなのだろうか? 謎は深まるばかりである。
sex pistols 万歳!!
『時計じかけのオレンジ』という映画をご存知だろうか? A・バージェスの名著をスタンリー・キューブリックという映画監督が――スロースロップの大好きな映画監督です――映画化したものだ。主人公はアレックスという名の凶暴な男だ(俳優はマルコム・マクダウェル)。
その昔、sex pistols(以下ピストルズ)というバンドがあった。1975年のロンドンで生まれたそのバンドは、1977年に解散した。その短すぎるバンドはパンク・ロックというカオスを生み出した。ヴォーカルはジョニー・ロットン(現在のジョン・ライドン)、ギター、スティーヴ・ジョーンズ、ベース、グレン・マトロック(後にシド・ヴィシャスに変更)、ドラムにポール・クック。
1960年代、ロックの共同幻想が世界を包み、1970年代に入り、その熱は急激に冷え込み、ロックはもはや世界を変えるほどの力は持っていなかった。誰しもロックの終わりを想像した。だが、ロックは終わりませんでした(笑)よくよく考えればそんなやわな音楽じゃない。ロックは、パンクという思想を手に入れて、再び熱気を取り戻した(ロック史の細かな説明ははぶきます)。
パンクは世界を変えた。
ピストルズというバンドは、70年代のパンク・ロック・ムーヴメント代表するバンドだ。では、どういった音楽をやったのか? 曲を聴けばわかるが、とても入りやすいメロディ、下手糞な演奏、従来のロックよりはスピードがあるが、現在、我々から見て、特筆すべきほど早いわけではない。じゃあ、何がすごいのか? 歌詞? いや、たしかに歌詞はアナーキーという言葉に代表されるように、アグレッシヴで批評精神たっぷりの歌詞だが、目を見張るほどではない。ピストルズというバンドは、音楽以上にその振る舞いがよく話題にされた。テレビで世界初「FUCK」という言葉を使ったし、女王即位25周年では、女王を馬鹿にするような曲を出し、船の上でライブをして警察に捕まった。だが、これはただのパフォーマンスであって、ピストルズを十全に表せていない。ではなにが?
それはロットンの声だ。
ロットンの個性もさることながら、その声が、唄い方が、ライブでのパフォーマンスが、ピストルズをパンク・ロックの盟主にさせたのだ。
その声は挑発的で、一度聴いたら忘れられないほどの衝撃を、耳に残す。
冒頭で「時計じかけのオレンジ」の話題に触れたが、ロットンという個性は、映画の中の凶暴な主人公、アレックスを現実のものにしたのだ。もちろん、それはパフォーマンスだ。だが、パンク・ロックの攻撃性はアレックスと伍することはあっても、ひけをとることはない。乾ききった時代――当時のロンドンの状況はひどいものだったらしい――を破壊するには、それほどまでに衝撃的な攻撃性が必要だったのだろう。
というかうだうだと書くのは、パンクに反する、と思う。スロースロップ自身はパンクではないけれど、憧れるわけです。とにかく、曲を聴いてほしい。簡単だ。ピストルズは一枚しかアルバムを出していない。『Never Mind The Bollocks』邦題は『勝手にしやがれ』。とにかくこれを聴けば、パンクが何なのかということがわかる。あわせて、映画で『ザ・グレイトロックンロール・スウィンドル』と『ノー・フューチャー』をお勧めする。前者は趣味的なピストルズの糞フィルムで後者はドキュメンタリータッチの映画だ。どちらも同じ監督、ジュリアン・テンプルという二流監督が撮っている。映画としての出来はお粗末だが、ピストルズが死ぬほど格好いいので、何とか見るに耐えるものになっている。
今回シド・ヴィシャスには触れなかった。理由はスロースロップがあまりシドが好きではないからだ。
もっと喋りたかったが――クラッシュやらラモーンズやらを――ここらでやめておく。長くなりすぎるから、それにうまく表現できないから。曲だけが、十全にピストルズを表現している。スロースロップが言いたいのは、そんだけ。
その昔、sex pistols(以下ピストルズ)というバンドがあった。1975年のロンドンで生まれたそのバンドは、1977年に解散した。その短すぎるバンドはパンク・ロックというカオスを生み出した。ヴォーカルはジョニー・ロットン(現在のジョン・ライドン)、ギター、スティーヴ・ジョーンズ、ベース、グレン・マトロック(後にシド・ヴィシャスに変更)、ドラムにポール・クック。
1960年代、ロックの共同幻想が世界を包み、1970年代に入り、その熱は急激に冷え込み、ロックはもはや世界を変えるほどの力は持っていなかった。誰しもロックの終わりを想像した。だが、ロックは終わりませんでした(笑)よくよく考えればそんなやわな音楽じゃない。ロックは、パンクという思想を手に入れて、再び熱気を取り戻した(ロック史の細かな説明ははぶきます)。
パンクは世界を変えた。
ピストルズというバンドは、70年代のパンク・ロック・ムーヴメント代表するバンドだ。では、どういった音楽をやったのか? 曲を聴けばわかるが、とても入りやすいメロディ、下手糞な演奏、従来のロックよりはスピードがあるが、現在、我々から見て、特筆すべきほど早いわけではない。じゃあ、何がすごいのか? 歌詞? いや、たしかに歌詞はアナーキーという言葉に代表されるように、アグレッシヴで批評精神たっぷりの歌詞だが、目を見張るほどではない。ピストルズというバンドは、音楽以上にその振る舞いがよく話題にされた。テレビで世界初「FUCK」という言葉を使ったし、女王即位25周年では、女王を馬鹿にするような曲を出し、船の上でライブをして警察に捕まった。だが、これはただのパフォーマンスであって、ピストルズを十全に表せていない。ではなにが?
それはロットンの声だ。
ロットンの個性もさることながら、その声が、唄い方が、ライブでのパフォーマンスが、ピストルズをパンク・ロックの盟主にさせたのだ。
その声は挑発的で、一度聴いたら忘れられないほどの衝撃を、耳に残す。
冒頭で「時計じかけのオレンジ」の話題に触れたが、ロットンという個性は、映画の中の凶暴な主人公、アレックスを現実のものにしたのだ。もちろん、それはパフォーマンスだ。だが、パンク・ロックの攻撃性はアレックスと伍することはあっても、ひけをとることはない。乾ききった時代――当時のロンドンの状況はひどいものだったらしい――を破壊するには、それほどまでに衝撃的な攻撃性が必要だったのだろう。
というかうだうだと書くのは、パンクに反する、と思う。スロースロップ自身はパンクではないけれど、憧れるわけです。とにかく、曲を聴いてほしい。簡単だ。ピストルズは一枚しかアルバムを出していない。『Never Mind The Bollocks』邦題は『勝手にしやがれ』。とにかくこれを聴けば、パンクが何なのかということがわかる。あわせて、映画で『ザ・グレイトロックンロール・スウィンドル』と『ノー・フューチャー』をお勧めする。前者は趣味的なピストルズの糞フィルムで後者はドキュメンタリータッチの映画だ。どちらも同じ監督、ジュリアン・テンプルという二流監督が撮っている。映画としての出来はお粗末だが、ピストルズが死ぬほど格好いいので、何とか見るに耐えるものになっている。
今回シド・ヴィシャスには触れなかった。理由はスロースロップがあまりシドが好きではないからだ。
もっと喋りたかったが――クラッシュやらラモーンズやらを――ここらでやめておく。長くなりすぎるから、それにうまく表現できないから。曲だけが、十全にピストルズを表現している。スロースロップが言いたいのは、そんだけ。
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『時かけ』再び!?
前回、言い忘れてました。映画のEDに流れる、奥華子さんの『ガーネット』という曲が、素晴らしい。映画にぴったりの歌詞とメロディ。明日も頑張ろう、という気になる。
とりあえずこれで『時かけ』については終わり・・・・・・かな?
とりあえずこれで『時かけ』については終わり・・・・・・かな?
![]() | ガーネット 奥華子 (2006/07/12) ポニーキャニオン この商品の詳細を見る |
時をかける少女!
『時をかける少女』(以下時かけ)は面白い。予想以上に。
スロースロップの住んでいる田舎に、『時かけ』がかかったのは、去年の十月頃だった。噂では聞いていた。朝っぱらから一人で車を走らせ、映画館に行った。十人くらいしか観客はいなかった。本編が始まった。
・・・・・・・・・・・・
普通映画を見ると、その世界にのめりこみ、何も考えられなくなる。だが、この映画は違った。妄想を働かせながら見ることになった。主人公、真琴の明るさに惹かれ、作品の流れ方に心地良さを覚え、主人公を取り巻く人間たちに好感を持ち、そしてクライマックス近くにやってくる真琴の大泣き。その、あまりの思い切りの良さ、すがすがしさに感動した。最近のアニメじゃ、ヒロインってものはやれ、ツンデレだ、クール系だ、メンヘルだので明るさが欠如していた。しかし、この真琴は近年まれに見るほど好感が持てるヒロインだった――昨今のアニメ業界は、どこにこのヒロイン像を置き忘れてきたのだろうか?――
キャラクターデザインに貞元義行!! エヴァ世代、ナディア世代《王立宇宙軍世代(笑)》にはたまらない!! 細田監督の映像にばっちりと合っている!! とくに、風呂場で真琴が鼻の下まで湯につかるシーンがあるのだが、そこなんて、もう!!!!!!
とまあ、こんな感じで突き進んでいったら、真琴萌えブログになってしまうので、自粛しよう。
閑話休題
青春というものは、存在しない。過去を振り返って、「ああ、青春だったな」と思うことが、誰しもあると思うが、それは幻想だ。世間の常識――胡散臭い――ってやつを刷り込まれているだけなのだ。なぜなら、青春とはステレオ・タイプな青春演劇のことなのだ。若かりし頃に、テレビで見たような、あるいは本で漫画でアニメで知ったような、いわゆる「青春」というやつを、自らの体をつかって演技しているだけなのだ。
だが、人は青春を愛する。なぜか? 心地良いからだ。青春は最高、最大、極上のエンターテイメントだからだ!
青春は究極のエンターテイメントだからこそ、ほぼすべての表現フォーマットで多用されているのだ。
ここまで書いたらスロースロップは、青春否定派だと思われてしまいそうだが、そんなことはない。大好きです!! 青春万歳です!! 青春が演劇で、自分がその役をこなしていたとしても、思い出はやっぱり残るし、後々になってその経験が人付き合いに役立つことになるからだ――かといって、歳は取りたくないもんだ(泣)――というか、とにかく楽しい。無責任でいいし、怖いものなんてないし、将来のことなんて考えなくてもいい。
だが、青春演劇の本当に恐ろしいところは、「痛み」がある、ということだ。この点が、青春を極上のエンターテイメントたらしめている。
青春の楽しい部分は、概ね各人共通しているところがある、だが《「痛み」の質》は経験をしたものそれぞれ独特のものだ。
真琴はタイムリープを使いすぎたことを後悔する。というか、時間を戻すことでは取り戻せないことがあることを知る。そして「痛み」を負い、泣く。青春時代は泣くことが積極的に肯定される。
観客たちは真琴の「痛み」を客観視しつつ、自らが負った過去の「痛み」を思い出し、誇ることができる。アニメの外であっても、真琴のような――当人にとっては真琴以上の――「痛み」を負うことができるのだ、と。
つーか、こんな馬鹿げた、見当違いなことを言ってきたけど、小難しいこと抜きに楽しめる作品だ。スロースロップみたいに、こんなこと言い始めたら、もう青春じゃないな。つーか青春ってあったか? ありましたとも。たまに戻りたくなる。みなさんそうなりません? でもたまにでいいや。たまにでいいから戻りたい場所ってのが、やっぱり・・・・・・。
最近泣きましたか? スロースロップの涙腺は干上がりっぱなしです。
何を言いたいのかわからなくなってきたな・・・・・・まあいいやとにかく一遍見てください。泣ける作品じゃありませんよ。最後まですがすがしくなれるもんです。というわけで、今日の文字は青色にしてみました。『時かけ』カラーということで了承ください。
時をかける少女 通常版 筒井康隆、 他 (2007/04/20)
角川エンタテインメント
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アラン・シリトー『漁船の絵』
二十八年間、郵便配達をしてきた。と、この書き出しで我慢してくれよな。 《冒頭より》
新潮文庫『長距離走者の孤独』(短編集)所収『漁船の絵』 アラン・シリトー(以下シリトー)という作家で有名な作品というと、おそらく『長距離走者の孤独』ということになるんじゃないだろうか。もちろん『長距離〜』も良い作品ではあるけれど、スロースロップは『漁船の絵』の方が好きだ。
この小説をどう読むか。恋愛? 喪失感?
シリトーはアナーキーな作家として、いわゆる《怒れる若者たち》という英文学の一派に見なされているが、よくよく調べて見ると、《怒れる若者たち》のほかの作家連は一流大学卒のバリバリのインテリばかり。シリトーはバリバリの労働者。この差は大きい。インテリで恵まれてるやつの怒りなんてロクなもんじゃないというのは、世の常。 作品をいくつも読まずにわかることだが、シリトーの怒りは規模が小さく、それゆえ濃いものになっている。給料が安いことに怒る、嫁の態度が悪いことに怒る、などなど。反体制という感じでは、まずない。たぶん政府打倒とか革命なんてことは、シリトーにはなんの興味もなかったんじゃないだろうか(とはいえ、いくつかの作品で冗談としてロシア革命が使われていることは興味深い)。
前置きが長い文章は屑。というのは世の常。このブログも屑ということになりそうだ(泣)
ネタバレをしない程度にぼやきたい。 男と女がいる。女は別れた女房。戦争が始まる。女房が死ぬ。 話しの筋はこれだけ。というか、ぜひとも読んでほしいので、この程度の説明しかできない。ただ、ある一定の人種にとって、この小説は心臓をえぐりだされそうになる。 スロースロップの心臓もえぐりだされそうになった。苦しいのだ。この小説が語る世界が、男と女の関係が、言葉にできない感情を浮き彫りにして、スロースロップのような人間をいたぶる。
さて、この小説をどう読むか。恋愛? 喪失感? 否。これは人生。
後悔は先に立たず、かといって後にも立たない。ただただ虚しさだけが残る。これはそういう小説。
お前は生まれつき頓馬(デッド)だ、としょっちゅう自分にいいきかせた。誰だって死んでる (デッド)のさ、とおれは答えた。実際死んでる(デッド)んだ、とおれはいいつづける。たいていの奴は、おれに判りはじめたことが判っちゃいねえ。それにしても判ったってどうしようもないころになって、やっと判るなんておれはひどく恥ずかしい。もう今となっちゃあ、万事手おくれだ。 《()内はルビ。最後辺りから引用》
最後に、丸谷才一氏の訳もまた素晴らしい、と付け加えておく。というわけでこれにて、御免!
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ご挨拶
まずはご挨拶。
はじめまして、スロースロップです。名前の由来はトマス・ピンチョンの『重力の虹』という作品の主人公からもらってます。
このブログは、小説、映画、漫画、アニメ、音楽等々、とにかく種々雑多なことにテーマにして、スロースロップがぼやくだけのものです。つまらないかもしれない・・・・・・でもそこはご愛嬌。笑って許して。
挨拶が長い奴は嫌われる。ということで今日はこの辺で――
はじめまして、スロースロップです。名前の由来はトマス・ピンチョンの『重力の虹』という作品の主人公からもらってます。
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挨拶が長い奴は嫌われる。ということで今日はこの辺で――
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