読むということ2
再考。
野坂昭如を再読しています。この人の文章が大好きなんですが、どこが好きかというと、リズム、なんです。このリズムは最高だと思う。肌に合うんでしょうね。文字がすらすらと頭に入っていくんです。読みやすい。
読むということと、リズム。関係ありそうですね。それはどちらかというと言葉(音)の方なんですが、でも言葉(文字)の方も含んでいる気がする。人は音でいろんな言葉を分けて理解できているわけですが、頭の中では文字が思い浮かぶわけです。その言葉がどういう音なのかを知っているから、言葉で思い浮かべることができるのか、音を表す言葉を知っているからなのかは置いておくことにします。
言葉が表すものを大まかに二種類に分けると、具体的なものと抽象的なものにわけられると思う。机、と言えば簡単にそれがわかる。けれど夢、という類の言葉はそうはいかない。見た事がないからです。抽象的な言葉ほど多義的になっていって、夢=寝ているときに見るもの、なのか、将来の目標、なのかわからなくなります。もちろんそれは文脈で読むわけですが、机、といったものは前後の文脈がなくても――比喩でないかぎり、またディテールは別にして――どういった場合であれ、あの、机です。いたってわかりやすい。
リズムは音が導くことが多いと思うんですが、表現が導くこともまた多いと思います。対比とか――シェイクスピアなどのあの仰々しいやつだったり――そういう表現で具体的なものがぽんぽんと並んでいて、頭の中で想像できている場合もまたリズムがつく気がします。
読む、という作業は頭の中で完結するものだと思います。だからこそ個人差が出て、面白いわけです。リズムも読むという作業を円滑に進ませるための――ひとつの側面として――装置であることは疑いのないことだと思います。舞城王太郎のガンガン進むリズムも、村上春樹のしんしんと進む感じも、またそういう装置だと思います。だからこそリズムをわざと乱して変化をつけるという技法が際立つわけです。
ですが、リズムそのものが読むという行為の全てになり得る場合もある。それは言葉を組み合わせて表現する「文学」というやつの自由の証明でしょう。なんでもできるわけです。ということは、読むという自体もまた、自由でなければならない。読まないという読み方をも含んでいるからこそ、言葉で表現するモノは存在しているわけです。
うーん、またわけがわからなくなってきました。読むということ、が自由であることはすでに周知の事実です。リズムで何かを読む場合――断っておきますが、野坂は内容も好きです。リズムだけで読んでいるわけではありません――それは読むということの本質、と思われる情報の伝達を考える上では、全てを認めるわけにはいかないような気がします。ですがそれは存在している。というか、リズムが伝えることもある。だからこそ、読むということ、が一体何を指し示すのかがわからないんです。結局また、わからなかった。一貫性のない駄文、申しわけないです、ジョンジョンジョン
野坂昭如を再読しています。この人の文章が大好きなんですが、どこが好きかというと、リズム、なんです。このリズムは最高だと思う。肌に合うんでしょうね。文字がすらすらと頭に入っていくんです。読みやすい。
読むということと、リズム。関係ありそうですね。それはどちらかというと言葉(音)の方なんですが、でも言葉(文字)の方も含んでいる気がする。人は音でいろんな言葉を分けて理解できているわけですが、頭の中では文字が思い浮かぶわけです。その言葉がどういう音なのかを知っているから、言葉で思い浮かべることができるのか、音を表す言葉を知っているからなのかは置いておくことにします。
言葉が表すものを大まかに二種類に分けると、具体的なものと抽象的なものにわけられると思う。机、と言えば簡単にそれがわかる。けれど夢、という類の言葉はそうはいかない。見た事がないからです。抽象的な言葉ほど多義的になっていって、夢=寝ているときに見るもの、なのか、将来の目標、なのかわからなくなります。もちろんそれは文脈で読むわけですが、机、といったものは前後の文脈がなくても――比喩でないかぎり、またディテールは別にして――どういった場合であれ、あの、机です。いたってわかりやすい。
リズムは音が導くことが多いと思うんですが、表現が導くこともまた多いと思います。対比とか――シェイクスピアなどのあの仰々しいやつだったり――そういう表現で具体的なものがぽんぽんと並んでいて、頭の中で想像できている場合もまたリズムがつく気がします。
読む、という作業は頭の中で完結するものだと思います。だからこそ個人差が出て、面白いわけです。リズムも読むという作業を円滑に進ませるための――ひとつの側面として――装置であることは疑いのないことだと思います。舞城王太郎のガンガン進むリズムも、村上春樹のしんしんと進む感じも、またそういう装置だと思います。だからこそリズムをわざと乱して変化をつけるという技法が際立つわけです。
ですが、リズムそのものが読むという行為の全てになり得る場合もある。それは言葉を組み合わせて表現する「文学」というやつの自由の証明でしょう。なんでもできるわけです。ということは、読むという自体もまた、自由でなければならない。読まないという読み方をも含んでいるからこそ、言葉で表現するモノは存在しているわけです。
うーん、またわけがわからなくなってきました。読むということ、が自由であることはすでに周知の事実です。リズムで何かを読む場合――断っておきますが、野坂は内容も好きです。リズムだけで読んでいるわけではありません――それは読むということの本質、と思われる情報の伝達を考える上では、全てを認めるわけにはいかないような気がします。ですがそれは存在している。というか、リズムが伝えることもある。だからこそ、読むということ、が一体何を指し示すのかがわからないんです。結局また、わからなかった。一貫性のない駄文、申しわけないです、ジョンジョンジョン
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