『続涼宮ハルヒ』論
――前回の続き
キョンはすべてをパロディにする小説装置だ。キョンの視線は読者の視線に近似しており、さらに思考も読者に近い。むしろそれはライトノベルという形式における主人公の変遷の結果と言えるのかもしれない。ライトノベルは小説とアニメ、漫画の中間に位置している世界でみてもかなり珍しい表現形式であり、それは筆者と読者の知っているもの、見ているものが重なっていてこそ成立する表現になっている。暗黙の了解によりなりたっていると言ってもいい(擬音語などの多用でも、読者にはある程度の先行の知識があるからそれがどういった表現なのかが理解できる。逆に言えば、そういった知識がないものにとってはかなり厳しいハードルがあると考えていい)。
ライトノベルの主人公としてのキョンは合格であることは間違いない。そしてさらには、羨望の対象にすらなりうる可能性がある。もちろんどの作品の主人公も羨望の対象にはなりうるが、キョンほどそれに適しているものはない。なぜなら、キョンはなんの能力も持っておらず、平々凡々な人間であり、なおかつ自分の置かれた状況を読者の視点で分析することができるからだ。キョンは読者の視点で事件に接しているのだ。だから、とんでもない状況に置かれても、結局は楽しんでいる。読者もそうだろう。そういった状況になりたい、と望む。
・・・・・・ここでお気づきだろうか。読者は何かに似せられている。キョンのような状況になりたいと望む、という欲望。そうハルヒと同じ願望を読者は持たされているのだ。ハルヒの望む姿そのままがキョンなのだ。漫画、アニメ的な世界に巻き込まれる主人公。ハルヒはキョンのような人物の状況にあこがれているのだ。
そこで、『涼宮ハルヒ〜』という作品はパロディそのものになってしまう。読者が知っている先行するアニメ、漫画があり、そのパロディとしてハルヒという作品があり、その主人公であるハルヒは読者のような願望を持ち、その身近にいて読者の視点を持つキョンは、パロディ人間となっている。
「探偵がいるから事件が起こる。事件が起こるから探偵がいる」=「ハルヒがいるからキョンがいる。キョンがいるからハルヒがいる」=「読者が望むから事件は起こり、事件があるから読者(ハルヒ)はキョンのような人物になりたいと望む」
先行するすべてのメディアをパロディにすることによって成り立っている。それが『涼宮ハルヒ〜』という作品なのだ。
現代の表現はパロディに向かっている。オリジナリティはどこにいった? という人もいるだろうが。スロースロップとしては喜ばしい。パロディはオリジナルに対するオマージュであると同時に、オリジナルを超える為の指標、もしくは誓いみたいなものだからだ。
人は模倣によってしか創造することはできない。大江健三郎は『新しい文学のために』という新書の中で、想像力とは現実にあるもののイメージを歪めること(変換するというような意味合いだと思う)だというようなことを言っている。
人は自然を模倣することから創造を始めた。もちろん想像力を用いて。様々な表現は今や長い歴史を持ってしまった。そのことによって、先行する表現が、現代の人間にとっての新たな「自然」になってしまっている。だからこそのパロディであって、メタ・フィクションであると、思う。
ハルヒという作品はそう言った点で、スロースロップをひきつけた。
またわけがわからなくなってきた。まあいいや。アニメのハルヒ二期と『涼宮ハルヒの驚愕』(発売延期(泣))を楽しみに待つことにしますか。
キョンはすべてをパロディにする小説装置だ。キョンの視線は読者の視線に近似しており、さらに思考も読者に近い。むしろそれはライトノベルという形式における主人公の変遷の結果と言えるのかもしれない。ライトノベルは小説とアニメ、漫画の中間に位置している世界でみてもかなり珍しい表現形式であり、それは筆者と読者の知っているもの、見ているものが重なっていてこそ成立する表現になっている。暗黙の了解によりなりたっていると言ってもいい(擬音語などの多用でも、読者にはある程度の先行の知識があるからそれがどういった表現なのかが理解できる。逆に言えば、そういった知識がないものにとってはかなり厳しいハードルがあると考えていい)。
ライトノベルの主人公としてのキョンは合格であることは間違いない。そしてさらには、羨望の対象にすらなりうる可能性がある。もちろんどの作品の主人公も羨望の対象にはなりうるが、キョンほどそれに適しているものはない。なぜなら、キョンはなんの能力も持っておらず、平々凡々な人間であり、なおかつ自分の置かれた状況を読者の視点で分析することができるからだ。キョンは読者の視点で事件に接しているのだ。だから、とんでもない状況に置かれても、結局は楽しんでいる。読者もそうだろう。そういった状況になりたい、と望む。
・・・・・・ここでお気づきだろうか。読者は何かに似せられている。キョンのような状況になりたいと望む、という欲望。そうハルヒと同じ願望を読者は持たされているのだ。ハルヒの望む姿そのままがキョンなのだ。漫画、アニメ的な世界に巻き込まれる主人公。ハルヒはキョンのような人物の状況にあこがれているのだ。
そこで、『涼宮ハルヒ〜』という作品はパロディそのものになってしまう。読者が知っている先行するアニメ、漫画があり、そのパロディとしてハルヒという作品があり、その主人公であるハルヒは読者のような願望を持ち、その身近にいて読者の視点を持つキョンは、パロディ人間となっている。
「探偵がいるから事件が起こる。事件が起こるから探偵がいる」=「ハルヒがいるからキョンがいる。キョンがいるからハルヒがいる」=「読者が望むから事件は起こり、事件があるから読者(ハルヒ)はキョンのような人物になりたいと望む」
先行するすべてのメディアをパロディにすることによって成り立っている。それが『涼宮ハルヒ〜』という作品なのだ。
現代の表現はパロディに向かっている。オリジナリティはどこにいった? という人もいるだろうが。スロースロップとしては喜ばしい。パロディはオリジナルに対するオマージュであると同時に、オリジナルを超える為の指標、もしくは誓いみたいなものだからだ。
人は模倣によってしか創造することはできない。大江健三郎は『新しい文学のために』という新書の中で、想像力とは現実にあるもののイメージを歪めること(変換するというような意味合いだと思う)だというようなことを言っている。
人は自然を模倣することから創造を始めた。もちろん想像力を用いて。様々な表現は今や長い歴史を持ってしまった。そのことによって、先行する表現が、現代の人間にとっての新たな「自然」になってしまっている。だからこそのパロディであって、メタ・フィクションであると、思う。
ハルヒという作品はそう言った点で、スロースロップをひきつけた。
またわけがわからなくなってきた。まあいいや。アニメのハルヒ二期と『涼宮ハルヒの驚愕』(発売延期(泣))を楽しみに待つことにしますか。
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